
『カッコーの巣の上で』(1975)は精神病院を舞台にしているが、精神病について語る作品ではない。鉄格子で隔てた閉鎖病棟の中に普遍的な世情、社会構造を見出す作品である。
原作はケン・キージーの小説。ここでは、ネイティブアメリカンの患者が主人公に据えられ、その一人称で語られる。
キージーはヒッピームーブメントの立役者でもあり、若者たちへ、慣れ親しんだ地縁からの移動、放浪を促した。異教文化や東洋思想に浸ること、ドラッグで精神を解放し、既成の価値観から逸脱することを奨励した。

そのようなカウンターカルチャーが起動する背景に、疲弊したアメリカの現状があった。ベトナム戦争への抗議、公民権を求める運動も、連なるように盛り上がっていた。

原題は『One Flew Over The Cuckoo`s Nest』。これはマザー・グースの詩の一節である。カッコウは、他種の鳥の巣に托卵する習性があるので、そこから、題名の意味について穿った読み方もできるが、率直な引用であろう。「カッコウの巣」とは、精神病院の蔑称でもあった。

精神病患者はずっと偏見の目で見られ、虐げられ続けてきた。座敷牢に繋がれ、癲狂院へ留置された。社会倫理と精神医学が発達し、精神病院で治療されるようになっても、本作に描かれたように、依然として人権侵害は続いていた。おぞましいロボトミー手術が行われなくなったのは、本作による功績が大きい。
本作には、カーク・ダグラス、マイケル・ダグラス親子が深く関わっている。二人とも俳優であるが出演はしていない。そもそもカークが原作の権利を買い、自らの主演で舞台化したが、芳しい評価は得られなかった。

その後カークがチェコを訪れた際に、本作の監督ミロス・フォアマンと出会った。彼の才能に惚れ込み、原作をチェコへ郵送すると約束した。実際送っていたが、その本はチェコの税関に没収されていた。両人はその事実を知らぬまま、連絡がないことを互いに訝しく想いつつ十年を過ごした。

1968年、プラハの春(チェコ事件)の際にフォアマンはアメリカへ亡命。権利を譲り受けたマイケルとフォアマンとの接触が叶い、ようやく本作の制作へと漕ぎ着けた。
撮影監督としてクレジットされているハスケル・ウェクスラーは、本作の脚本から演出補佐まで積極的に関わっていたが、制作途中で解雇されている。一説によると、彼のカッチリした撮影計画が、役者の反応に即応するフォアマンの演出意図にそぐわなかったかららしい。撮影監督は、その後ビル・バトラーへ交代している。撮影中、監督と主演のジャック・ニコルソンとの間には確執が生じたため、バトラーを介してやりとりしていたようだ。
本作は、実在するオレゴン州立病院という精神科病院内で撮影されている。その院長であるディーン・R・ブルックスの尽力が、本作の完成度を引き上げている。

監督は演者を、役の人物として自然に振る舞えるような環境に置いた。演出に於いては、自然さ、リアルであることに、一貫してこだわった。 看板役者であるニコルソンが現場に入るまでの十日間、俳優たちは入院患者たちと同様、銘々に配役された患者として院内で寝起きし、生活した。その際、それぞれの役に相応しい病状を、院長ブルックスが提案し、入院患者を観察させた。
患者役の俳優たちは、無名だが優れた演技者たちだった。しかし、いかに己が感情の操作に長けた彼らでも、数日間、役の人物として考え、役の人物の情緒で暮らし、そこから離れずにいるうち、本来の自分を見失い、混乱に陥った。
マーティーニ役のダニー・デヴィートやチェズウィック役のシドニー・ラシックが不安になるたび、院長ブルックスが診察し、相談に乗っていた。このエピソードは、役の人物の精神状態を生きる、スタニスラフスキー式演技(メソッド演技)法の危険を示唆している。『ダークナイト』(2008)でジョーカーを演じたヒース・レジャーの、死亡の遠因とも言われている。

ヒース・レジャー
けれども本作における俳優たちの演技からは、役の人物として振る舞い、交流していた時間の厚みが感じられる。ずっとその人物を内側に引き留めていれば、その人物として的確に反応できるようになる。
演技が的確であれば、観客も、劇中の人物を、実際的な事情を抱えた人物として観察できる。目配せ、手足の僅かな挙動、体の向き、声の張りなどに顕れる意味を、観客は読み取ろうとする。
真に迫った演技は、観客の集中力をも高める。なぜか。実際我々がどう振る舞うか考えてほしい。我々は普段、頭に想い浮かんだことを明け透けに口にしているか。一挙手一投足、誰憚ることなく好き勝手に動かしているか。そうではなかろう。かなり制御しているはずだ。我欲の赴くままに振る舞っていれば、他人との軋轢が生じるからだ。なので、基本的には真意を隠している。往々にして、口から発するものは、不都合のないよう検閲された言葉だ。ボディランゲージも同様に、真意が露呈しない、抑制された動作になる。

優れた役者は、役の人物のこれまでの経緯を自らに刻み付け、この先どうするかという意志を設定した上で、それらを「隠す」。なので観客も、人物が隠した真意を、彼らが発する微かな信号から捉えるべく注意する訳だ。
ドラマは、自己抑制が人間関係の中で綻ぶ過程を見せる。綻びから曝け出された自我同士が諍う。あるいは共調する。本作に於ける演技のアンサンブルは実に素晴らしい。撮影、編集も、彼らの芝居に呼応している。刻々と変化する人物同士の関係性が、ヒリヒリするほどの臨場感で提示される。

本作には、職業俳優ではない演者も出演している。主人公マクマーフィーと面談するスピービー医師を演じているのは、院長のブルックスである。そしてマリーナの管理人を演じるメル・ランバート、チーフ役のウィル・サンプソン、三人とも素人である。驚くのは、彼らが、要求に応じた最高の演技を提示していることだ。監督の演出力もあろうが、あれほど洗練された芝居ができるのは元々の素養だろう。ウィル・サンプソンはこの後プロの俳優に転向した。

ウィル・サンプソン
患者役には他にも『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズで有名になるクリストファー・ロイドや、その異貌ですぐ彼と判る『サランドラ』のマイケル・ベリーマンも出ている。本編では明示されないが、ベリーマンの役は、ロボトミー手術を施された患者の設定だ。
ジャック・ニコルソンはこの時すでにスター俳優だった。観客は彼に感情移入して、未知なる閉鎖病棟の世界を垣間見る訳だ。ニコルソンの、瞬時に人を惹きつけるカリスマ性と、あふれ出る反骨精神。マクマーフィーを演じるために生まれ出たような、一世一代のハマり役となった。

ジャック・ニコルソン
的確に人物の分析、造形が為された脚色も素晴らしい。演者の発する科白が生きている。人物が遠回しに自我を表出している。「飛び上がってボールをブチ込め!」「煙草を返してくれ!」「帽子を拾ってください」などの科白は、それぞれ違う言葉に変換できる。ボール、煙草、帽子でカモフラージュした、魂の叫びである。
主人公のマクマーフィーとは、どんな人物であろうか。彼は確かに婦長ラチェッドと対立するが、決して彼女を屈服させようと考えている訳ではない。彼は「一週間以内にあの婦長をキレさせてみせる」と周囲に宣言する。ラチェッドに感情を発露してほしいのだ。人間らしい関わりを求めているのではないか。
マクマーフィーは悪人ではない。例えば本編の終盤。脱走すればよいところを、ビリーに女を宛行い、彼のロマンスを優先した。マクマーフィーは悪人どころか、情に絆される善人であったために、夜を明かしてしまったのだ。
マクマーフィーは、徐々に優れたリーダーの資質を発揮していく。彼は集団を巧みに統率する。マクマーフィーの誘導により、皆が充実感を得るようになる。海に出て大きな魚を釣り上げたり(院長のデスク上の写真が伏線として回収された)、バスケットボールで、チームの一員として活躍したりという小さな成功体験を積み重ね、自信が生まれ、仲間同士連帯し始める。この状況に、彼らを管理する為政者は危機を感じる。優れたリーダー、影響力のある扇動者だからこそ、為政者にとって好ましからざる者となる。

本作を、寺山修司作品のような、過干渉の母親とそれに抗う息子の物語と見做すこともできる。母性とは、極めて保守的な本能であろう。母は子を、私にとっての「よい子」に変えてしまおうとする。ことを起こさぬため、我が子を洞穴の中へ永久に幽閉するような、残酷な性質を秘めていたりする。
しかしそれにしても看護婦長ラチェッドは冷徹である。彼女の任務は、患者たちの心のケアをすることであるが、残念ながら、彼女自身に心がない。 眉一つ動かさず、厳然と死刑判決を下す裁判官のように、情緒を拭い捨て、ただ頑なに公正であろうとしている。

彼女の頑なさを見ると、この人の心も深傷を負っており、健全に機能しなくなったのではと推察させる。彼女も孤立無援の人生を送ってきたのだろう。「理念」が、彼女をどうにか支えていたのかもしれない。なので、厳粛に「理念」を履行しているのか、それとも……
本作は、チェコによる検閲や、政情不安の故国を捨て、監督が渡米するなど、国家に翻弄された経緯を持つ。けれどもそれが作品の血肉となっている。
医師たちが、マクマーフィーの処遇を決めるため話し合う場面で、病気か否かの意見交換が為されるが、この場面こそ社会構造を表している。個人が複数集まり、組織が出来る。組織が体制を作る。体制が成立すると、それに属する個人が、疑うこともなく、体制を維持する機能になろうとするのだ。体制を維持しようとする医師にとって、マクマーフィーは体制を脅かす不穏なもの、好ましからざるものであり、病気か否かはともかく危険だと、彼を排除しようとする。

しかしラチェッドは、マクマーフィーを矯正農場へ送還することに反対する。
歴史を顧みれば、いや顧みずとも、今日本政府や省庁による国民への処遇を見渡せば、これは単に私益のためだけでなく、陰湿でサディスティックな欲望を充たすためとしか考えられない事象で溢れている。圧政者たちは後ろ暗い愉悦を覚えている。嗜虐心や支配欲を隠している。
けれども気が咎めるので、それを自覚せずに済むよう理論武装している。
ラチェッドがマクマーフィーを手放したくないのも、嗜虐心や支配欲を充たすためかもしれない。彼を屈服させたいからかもしれない。しかし、自身ではそれを認めていない。あくまでも彼を救うため、引き続き管理下に置くのであると。

生きるとは、闘うことである。闘いのうちに歓びを見出し、生きていることを実感する。
けれども、例え敢闘していたとしても、優勢が続くとは限らない。必勝の保証もない。血塗れの惨敗を喫するかもしれない。人生は、恐ろしい闘いでもある。
若いビリーはなぜ、マクマーフィーとの脱走を拒むのか。人生を引き受けるのが恐いからだ。闘いに、身を投じる覚悟ができないのだ。吃音があり、繊細で、純情である(しかしその純情さのため、十二使徒のユダの如くマクマーフィーを売ってしまう)。そのために、過剰な負い目を感じ、闘いに怯んでいるのではないか。

閉鎖病棟の中が、落伍者たちの避難場所に見える。逃れ逃れて辿り着いた者たちの、救護所に見える。この院内なら、無期限の猶予期間が過ごせるのではないか。人生を引き受けずに、闘わずに済むのではないか。
だが、ここですら彼らが忌避した社会の一端であった。「生かさず殺さず」が、人間を、長く支配下に置くコツであろう。ラチェッドの管理にある限り、制限付きの自由に甘んずるしかない。匿ってもらう代償として、自我を殺して体制に隷属し、管理者の支配欲が充たされるよう、奉仕するしかない。
「あの病院の中は、私が過ごしてきたチェコの社会と同じだ」と監督は語る。本作は亡命者の視点から語られている。
病院側が施した、マクマーフィーへの処置が衝撃的だ。マクマーフィーは、悪人ではなかった。異常者ですらなかった。ただ少し粗野で、法規を逸脱するほど生命力旺盛だっただけだ(法規を基準に人間を判断してはならない。人間を基準に法規を改めるのだ)。しかしこのような措置に遇されたのは、彼が英雄として責務を果たそうとしていたからだ。

就寝時間だったので、病棟の患者で、抜け殻になったマクマーフィーの姿を見たのはチーフだけだ。チーフは覚悟を決め、為すべきことをする。マクマーフィーが、最期の抵抗をする。つらいが、やらねばならない。一緒に脱出するという約束を果たすため。我らの英雄を、英雄のまま生かしておくため。
個人の自由を抑え込もうとする力が、どうにも抗えないほどに強大で、闘うことさえ敵わず、虐げられることが明白であるなら、その場から飛び立つしかない。夜が明ける前に、亡命を計るしかない。
