ノーマン・J・ウォーレン

 見上げる空の彼方から、降り注ぐ神の悪意を感じる。這うように日々を過ごす者には、外宇宙のことなど気にかける余裕もない。この地表を、ろくでもない虫たちが蠢いているように、宇宙の方々で、きっとろくでもないことが起こっているのだ。金星人のオヤジが、金星人の若いインターンの娘に、「その部署で働きたいの? よし、じゃあ僕がなんとかしてあげる。ところで、今晩空いてる?」などと迫ったりしているのだ。星の瞬きはロマンティックだが、局所的に観察すれば、そのような忌わしいことが、全宇宙で頻発しているのだ。

 ノーマン・J・ウォーレンという、オモシロ悲しい映画監督がいた。イギリス人である。ホラー映画を主として手掛けた監督なのだが、才能に恵まれなかった。ついでに、制作予算にも恵まれなかった。あらまあなんでしょうこれは、という感じの作品ばかりを世に遺し、2021年、鬼籍に入った。

 1985年、ウォーレンの『悪魔の受胎』(1981)は、『死霊のはらわた』(1981)の併映作として、地方でひっそりと公開された。

 俺は今でも想い起こせる。エンタメを事務仕事のように扱っていた、関東郊外の映画館を。慎ましいオフィスビルに、何かの間違いで劇場が設えられた、そんな感じの味気ない小屋だった。それでも、映画少年だった俺は繫々と通っていた。その日も、クリント・イーストウッドの作品を観ようと、ビルの階段を登っていた。ただ登り降りだけを強いるような、オフィスビルの無表情な階段。立ち止まると不安になるような狭い空間だ。そこでいきなり『悪魔の受胎』のポスターに出迎えられ、ギョッとした。不意を突かれた。素っ気なく貼られたこのポスターがあまりに唐突で異様で、うわっと顔を背けた先に、今度は『死霊のはらわた』のポスターが待ち構えていた。悪魔と死霊の挟み撃ち。純情な中学生の心の傷となった。イーストウッドの映画を上の空で観賞した後、この階段を避けて、エレベーターで降りた。

 公開時ポスター
 生まれて間もなく喉首ガブリ。可愛げなんかありゃしねえ。宇宙の奴って皆こうなの?

『悪魔の受胎』は『エイリアン』(1979)のパチモンである。本家と比較するとかなり見劣りしてしまう。例えば衣装など、溶接ヘルメットに洗濯機のホースを繋いだようなものを宇宙服としているくらいだ。ある惑星に赴任した地球人たちが、異星人に唆され次々と仲間を襲う、というお話なのだが、本来異星人がすべきことを役者たちがしている。襲撃してくる異星人を用意するのが、そんなに面倒だったのか。ホラー映画なんだから、全貌を現さないほうが恐さを演出できるし、低予算でも知恵の出しようがあったろうと想うが、どうも作り手はそれを怠ったようだ。つくづく想うが、映画の出来不出来は予算ではない、作り手のセンスで決まるものなのだ。

『悪魔の受胎』
 ジュディ・ギーソン。彼女のプロ根性に頭が下がります。

 けれども、弱みであるはずのことが翻って強みとなったりする。本作では、異星人にレイプされ襲撃者となる役のジュディ・ギーソンが、瞠目の狂演を見せる。特に、絶叫しながら異星人の子を産み落とす場面など凄まじく、恐い。ホントに恐い。彼女の捨て身の演技こそが、本作の真価である。ネット上のレビューを探してみると、併映の『死霊のはらわた』よりこっちのほうがトラウマ、という声もいくつか拾えるほどだ。

『死霊のはらわた』公開時試写状
「さあ、紅組も負けてはいませんよお!」併映作品に対抗心を燃やす、アメリカの化け物。

 ウォーレンの作品は基本的に駄作であるが、捨てるに惜しいところもある。『悪魔の受胎』や『TERROR』(1978 VHSタイトル『ギロチノイド』)のテーマ曲など悪くないし、『OUTER TOUCH(SPACED OUT)』(1979)というちょいエロ喜劇などは、音楽も美術もレトロフューチャー感満載で、今ならオサレじゃんと評価されそうだ。

『OUTER TOUCH(SPACED OUT)』

 だとしても駄作は駄作に過ぎない。ウォーレンのフィルモグラフィーの中で最も酷いと想われるのが、『人喰いエイリアン』(1977)である。どれほど酷いのか。

 それを語る前に、まず映画のプロデューサーになったつもりで、異星人が地球人を襲うホラーの制作予算を立ててみよう。何が必要か。宇宙船は用意すべきだろう。こちらから出向くにしろ向こうから来るにしろ。ルーカスやスピルバーグの作品を筆頭に、これまで様々なものがあった。できれば新機軸を打ち出したい。役者が出入りするなら、その乗降口だけでも等倍のものを作らねばならない。全体像が必要なら、ミニチュアにしろCGにしろ、それなりの経費と日数がかかる。異星人はどうする? どんな姿をしているのか。ドゥニ・ヴィルヌーヴの『メッセージ』(2016)は凄くよかったけれども、惜しいなあ、あれタコじゃなきゃだめかなあ、とここは最も観客の関心が集まるところだ。見たこともないような生命体を創り出し、なお且つ、なるほどこうでなければねと、観客を納得させねばならない。モブシーンはあるか? 例え数十人だとしても、全員にメイクや衣装を施すとなれば大仕事だ。拘束時間が長いなら、人数分仕出し弁当も発注せねば。セットは? 建造物や乗り物などが破壊されるシーンはあるか。場合に応じて、美術や大道具が大掛かりな仕事を担うことになる……

『人喰いエイリアン』は、これら全てを放棄して、世に出てしまっているから恐ろしい。

 ビデオ屋の片隅で、他の誰とも違う雰囲気を放っていたあなた。皆、あなたと目が合ったことすら忘れようとした。あなたに心奪われるのが怖くて。でも、今は素直に叫びたい。私はあなたに夢中! ……そんな憧れを一方的に抱かれる、秀逸なVHSジャケット。ここでも地球人の喉首を齧り取ってやがる。皆こうなんだな、宇宙の奴ってのは!

 現代美術館に収蔵されてもおかしくないくらい、イカしたモダンアートのような装丁のVHSを手にした時、これはきっと忘れられない作品になるだろうと想った。予感は的中した。あまりにショボ過ぎて、深く記憶に刻み込まれてしまったのだ。とにかく作りが安い。いや、作りが粗暴なのだ。本作の登場人物は、たった三人。エイリアンと、レズビアンカップル。それしか出てこない(他に四人ほど端役が一瞬出てくるだけ)。エイリアンと言っても、普段はなんの変哲もない、タートルネック着た英国青年でしかない。彼は宇宙船でやって来たようだが、それは、屋敷の窓の外がピカッと光ったことで示される。エイリアン君は興奮すると異星人の正体を露呈させるのだが、それがまた労を惜しんでか、カラコン嵌め、鼻の頭を黒く塗り、パーティーグッズの牙みたいなのを着けて一丁上がり。これではエイリアンと言うより犬人間だ。撮影も、レズビアンカップルが暮らす屋敷とその周りの林だけで済ませている。観ている間ずっと、なんじゃこれなんじゃこれ、粗いよ粗いよと、心が騒めき続けた。ものぐさホラーの最底辺を決める大会があるなら、イギリス代表はこれに決まりだ。

 エイリアン君が地球に降り立ったのは、「プロテイン作戦」を遂行するためである。地球に食糧を求めてやって来たのだ。エイリアン君は林の中で、野兎を捕まえて食う。「プロテイン作戦」である。食えるかどうかの調査を命ぜられているからだ。そうしているとレズビアンカップルに遭遇する。そして彼女らに気に入られ、屋敷に招かれる。エイリアン君は、彼女らが飼っているオウムも捕食する。「プロテイン作戦」を履行しているのだ。この後、その場の想いつきでやっているようなシーンがグダグダと続く。調べてみると、撮影が始まっても脚本が出来ていなかった、という裏事情があるようだが、そう想わせて、これも我々を欺く「プロテイン作戦」の一環かもしれない。やがて「プロテイン作戦」は、レズビアンカップルたちの命と、観客の85分を無慈悲に奪い取る。本作は濡れ場も多く、ホラーと言うよりソフトコアポルノのようでもある。どっちなんだと問い質されたら、どっちにしろ時間の無駄だと答えるしかない。

『人喰いエイリアン』
 せっかくだから地のもの食わないとねえ、って旅先のオヤジみたいだけど、人間まで食っちゃうんだから節操がないよ。

『人喰いエイリアン』ではエイリアンとレズビアンがまぐわい、『OUTER TOUCH(SPASED OUT)』では異星のお姉さんたちと地球の野郎どもとがシモの交流に耽り、『悪魔の受胎』では地球人が異星人に強姦される。これはウォーレンの性的趣向であろうか。うん、そういうことにしておこう。

 人生は懲役みたいなもんだ。望みは叶わず、努力が報われるとも限らない。理想から甚だしく乖離した境遇に辟易しながら、信用ならぬ人々とどうにか合わせて、課せられた日々を、刑期満了まで務め上げるしかない。自分は代えの利く存在だ。自分の声など、どこにも届かない。いるのかいないのかあやふやな、亡霊のような存在だ。こんな人生、いつ中断しても構わんのだが、その場合また色々と迷惑をかけてしまうので、やむを得ず続けているのだ……実はこのような凡庸な人々が、この世の中を営々と支え続けている。

 けれども、もし映画監督などという立場にいたのなら、証明したくなるのではないか。自分は確かにこの世に存在した、そして多少なりとも、誰かに影響を与えたと。

 しかしウォーレンの作品からは、その野心も感じ取れない。しょうもないものばかり拵えてと蔑まれても、忘れ去られても、気に留めないような風情が、作品から漂っている。

 出自が卑しく育ちが悪く、投げやりな映画たち。打ち棄てられそうな彼らだが、確かにこの世に存在していたのだ。なんだか健気に想えてくる。分不相応な野心を抱くほうが、よっぽど無粋だよ。ならば卑しい映画たちも、見限る観客たちに服しておとなしく死んでくれるだろうか。否。映画には、生みの親の意志や世間の評価とも関係なく、作品それ自体に意志があるのだ。

『人喰いエイリアン』
 こんな映画でも、愛してくれる?

 ミームという概念がある。自然科学に於ける遺伝子の、社会、人文科学に於けるそれである。生き残ろうとする文化的な情報のこと。遺伝子は、進化する生命体を、代々乗り継ぎ乗り捨てて、未来のどこかを目指している。生き残ることが至上の命題で、有機物に執着する必要もないなら、遺伝子は、強いミームやデータに転身してでも、本懐を遂げようとするのではないか。

 映画は、語られなければ生き残れない。批評が、その生命維持装置の役割をしている。そしてそれとは別に、作品そのものに意志がある。俺はここで『悪魔の受胎』や『人喰いエイリアン』について語っている。自分では、映画にまつわる郷愁がさせていると感じているが、そうではない。奴らが、映画たちが、命を繋げんとして俺に語らせているのだ。

『悪魔の受胎』

 まあだとしても、こんな誰も訪ねてこないようなブログで語られるのが関の山だ。ウォーレンよ、あんたの映画も、俺の言葉も、存続しない。俺たちはいずれ、時間という共同墓地に蹴落とされ、跡形もなくなるのだ。