この国が共同体として、健全に存続していくか心配だ。健全な哲学を持たない大人で溢れ返っているように想える。
信条をもって自己を律しない、矜持のない、信用ならぬ大人たちが大勢いる。本来なら、模範にならねばならないような年齢の者に、どうしようもない奴らが多い。どうしてだろう?
いかに人倫に背こうが破廉恥であろうが、己が利益に適うなら、どんな汚いことでも平気でする。権力にものを言わせ、世俗の桁を超える賄賂のやり取りをし、大勢を不幸に陥れている邪な奴らにすり寄ってまで、自己の利益を追い求める。
ここには倫理的な規範がない。損か得かしかない。さもしいのだ。自らを恥じ入るきっかけがない。崇高なものがない。純粋に美しい、憧れの対象もない。無条件に従いたくなるような、哲学の拠り所がないのだ。
政権与党の政治家どもよ、民主主義民主主義と免罪符のように唱えているが、まとまった組織票を当てにして、宗教の皮を被った凶悪な詐欺集団とつるむ貴様らが、果たして民主主義者か? 現在マスコミは、世界平和統一家庭連合(ネーミングセンスに狂気が滲む)を集団で突いているが、公明党員は内心ヒヤヒヤであろう。公明党の支持母体は創価学会である。創価学会も、信仰をネタに勢力を拡大したがめつい集金機構である。追及しても、政教分離の原則には抵触しないと抗弁されるであろうが、組織力で国政に大きな影響を及ぼしているのが実状だ。その活動実態を知れば、あなたは背筋が寒くなるだろう。何故なら、彼らはあなたのすぐ側におり、その集団力、影響力を行使して、容易にあなたを追い詰めることもできるし、ずっとそうして覇権を維持してきたからだ。
俺自身、マンション上階の家族から、新聞を取れ投票しろと、執拗に勧誘された経験がある。まあそれくらい、彼らからすれば挨拶程度のことだろう。頑として抗う俺にその家族は、金は払わなくていいから読んでくれと、俺んとこに毎朝聖教新聞を放り込んだ。嫌々ながら紙面を開くと、一面にでかでかと扱われているのはたいてい、池田大作名誉会長が、どこそこの国で褒章されただの、名誉国民に選ばれただの、そんな記事。それが一年のうち半年以上、世界情勢がどうあろうが掲載される。それだけ学会員から巨額の金を吸い上げ、世界中にばら撒いているということ。そして、たいした利益にもならない末端の構成員が、これほどの熱意で動き、身銭を上納しているということ。俺はゾッとした。上階の家族の意図には反するだろうが、あの新聞を読み、世の中の仕組みが判った。これはいい契機になった。是非「折伏大行進」を検索してほしい。同団体の実態を知るきっかけにしてもらいたい。おっと、これを読んでるあなたが学会員ってことも、充分あり得るね。よろしくどうぞ。
まあそれにしても、歴史を顧みれば、三大宗教と言われるキリスト教、イスラム教、仏教は、時流の政治に寄り添い、戦略的に変容して、勢力を拡大させてきた。特にキリスト教などは、無茶な調整のし過ぎでおかしなことになっている。その都度違う業者によっていびつに建て増しされた古い温泉旅館のようだ。唯一絶対の神がいるのに、神の子もいて、あと聖霊ってのもいる。神の子は人の子のように生まれちゃまずいので処女から生まれたことにして、死んだままだと色々不都合なので生き返らせてって、本来なら、ちょっと待ていとツッコまれるところなのだが、誰もツッコまない。何故なら、宗教だから。宗教だから、を前提にすれば詭弁が通ってしまう。
人間はか弱い。生活に困っている人、気持ちが弱っている人、悩む人、迷う人、こういう人たちは、超越的なものに縋りたくなってしまう。これに頼れば絶対大丈夫、という存在を信じたくなる。そこで宗教が出てくる。詭弁で弱者を取り込み、宗徒にしてしまう。そして宗徒の生活を禁忌で縛って抑圧し、彼らから搾取する。宗教全てがいかがわしいと言いたいのではない。人間の生活に欠くべからざるものではあるし、信仰に救われる人もいる。けれど、宗教団体の覇権主義も恐ろしいものだ。三大宗教だって、今に至る道程を振り返れば、そこには血塗れの光景が幾つもある。
生臭い野心で版図を拡げた教義宗教とは別に、各地に根付く土着的な信仰がある。狭いコミュニティーで人々が暮らしていくために必要とした、原始的、自然発生的な宗教である。政治戦略的な教義宗教に比べれば、純粋で、寛容だ。そこでは神話の神々が生き続けており、神々と共存するように人間の生命の営みも尊ばれ、性に対しても大らかである。
『ミッドサマー』(2019)も、土着的な信仰を描いた作品である。主人公は、衝撃的な事件で家族全員を失った、アメリカ人の若い女性。彼氏とはすでに冷めた関係にあるが、心を病んで毎日がつらいので、依存せざるを得ない。彼氏は、心の底では関係を切りたいのだが、頼られるので切ることができない。ホントはハメ外しに野郎同士で行く予定だったスウェーデン旅行も、放っておけないからという理由で、この主人公も連れていくことになった。
五月祭の由来は古代ローマ時代にあり、夏の豊穣を予祝する祭りと考えられており、地域によっては夏に行われる。映画の舞台となったホルガ村では、人の一生は四季と捉えており、十八歳から三十六歳までを夏としている。その時季を過ごす若者は、巡礼の旅に出るとされる。世に出て見聞を広める年頃、ということだろう。主人公の年齢は、ちょうど夏至祭の頃となる。
似た祭りは欧州各地にある。同様に、メイポールと呼ばれる柱を祭場に立て、人々はその下で踊る。そして祭りの最中に、メイクイーン(五月の女王)が選ばれる。必ずしも五月に開催される訳ではない。この「メイ」は具体的な五月というより、「豊穣の季節」という意味の「メイ」であり、五月にこだわるものではないようだ。
主人公たちがホルガ村へ入ろうとした際、天地が反転する。ここからは祭祀の領域、ということだ。祭りとは、日常が非日常に反転することでもである。
ミニマル音楽のような祭囃子に迎えられ、主人公たちは、九日間に及ぶホルガ村の夏至祭に参加する。
監督は今村昌平の映画も参考にしているとのことで、随所に今村イズムが散見される。崖のシーンは『楢山節考』(1983)であろう。そこに出てきた老人男性が、ビョルン・アンドレセンだと知ってびっくり。『ベニスに死す』(1971)の美少年である。時の流れは残酷だ……しかし本作、よく考えられている。主人公たちは、野蛮、不快な共同体の掟に直面し、当惑するが、村の哲学に照らし合わせれば、ちゃんと筋が通っている。魂は循環する。村人全ての存在に意味がある。知的障碍者でさえも。いや、知的障碍者だと余計者扱いするのは、有機的な共生が維持できなくなった高度資本主義社会であって、そこで非合理とされるものは全て排除される。けれどもホルガ村では、知的障碍でさえも、曇りのない目で真意を見抜く能力と捉えられ、有意義なこととなる。全てが有機的に活かされているのだ。
村人たちが皆一斉に泣き叫んだりする場面も異様だが、あれだって、つらい状況にある者の感情を共有しようという振る舞いだ。共同体の絆が深まるように、皆で情緒的に繋がろうとしている訳で、そう考えれば、奇異と断ずることはできない。この監督は『ヘレディタリー 継承』(2018)を撮ってた頃から、ずっとこれがしたかったんだろうなあと想ってしまった。
ホルガ村の祭儀は、植物などの幻惑効果に、かなり頼って進められるが、これも奇異なことではなく、原始的な祭儀に於いては、神々と繋がるために、酒や薬物に頼ることも珍しくなかった。神道の神職者の装束は麻で出来ている。それは、麻という植物に、神と人との間を取り持つ働きがあると考えられたからだ。
まるでこうなる運命であるかのように歓待され、主人公は、奇妙な種族の玉座に着いた。そして、笑みを浮かべて、この新たな家族を受け容れた。
けれどもこの夏至祭、九日間の予定なので、まだあと四日ある。血に飢えた神々にとってみれば、メイクイーンの犠牲ほど悦ばしいものはない。最高位の人身御供である。たぶん、村の来季の豊饒のために、彼女が捧げられたんだろうなあ。
『ミッドサマー』を観た際、真っ先に『ウィッカーマン』(1973)を連想した。『ミッドサマー』もよく出来ているが、『ウィッカーマン』も傑作だ。本国イギリスでは『 赤い影』(1973)と同時上映だったそうだ。なんと贅沢な映画体験であろうか。
『ウィッカーマン』の主人公は、匿名の捜索願を受け、行方不明の少女を捜すため、イギリス本土からサマーアイル島へやって来た警察官である。彼は敬虔なプロテスタントだ。つまり禁欲主義者である。婚約者はいるが婚前交渉を避けており(なので童貞)、就寝前のお祈りも欠かさない。
『ウィッカーマン』は、とてもミュージカルな映画である。サマーアイル島の住民たちは、とにかくず~っとセクシュアルな艶歌を歌い、楽しげに踊っている。
旅籠屋の飯炊き女(宿の主人の娘らしい)が、「♪ヘ~イホ~若くて美しい私を見て~」と、素っ裸で壁をバンバン叩きながら歌うもんだから、隣りの客室にいる童貞の主人公、悶々としちゃって寝られやしません。
『ウィッカーマン』にもメイポールが出てくる。それを取り囲む少年たちが淫猥な歌を合唱し踊り回る傍らで、学校の教室では女教師が女生徒たちに訊く。メイポールは何を象徴しているものですかと。女生徒たちは元気よく答える。「おチンポ!」
島の五月祭に於いては、最後に生贄を捧げ、豊穣の女神の祝福を祈願する。不作の年には人身御供がなされていた。
本作は、寓話的に、短編小説のようにまとまっている。凝った筋書きやどんでん返しも愉しいが、俺はそれより、人間批評を含んだ寓話的な物語や、その整合感を愉しむほうなので、本作のストーリーラインを心地よく感じた。人間の本質を捉えた映画は、何度観ても面白い。ネタバレしたからつまらないという映画は、ネタバレしなくてもつまらない映画なのだ。
実のところ主人公は、仕組まれた計略によってここへ辿り着いた。法の施行者であり、自らの意思で赴いた、敬虔な異教徒。そして童貞。彼は生贄としてあるべき条件を満たしていた。主人公は愚者(道化師パンチ)の扮装をして祭りに潜り込むのだが、愚者や道化は、祭りの日だけ王になることが許されたりする。日常が非日常に反転するのが祭りである。
主人公は、祭りの王となるため聖別される。王として、生贄となるために。やはり、王の犠牲は供物として最高のものなのだ。
映画の中では、ホルガ村民もサマーアイル島民も、皆幸福そうに見える。それに、ホルガ村の首長(司祭?)にしても、サマーアイル島の領主にしても、住民から不当に利益を搾取したり、我欲のために弾圧したりしている訳ではなく、同じ地平で生活している。俺には、ホルガ村やサマーアイル島より、今の日本のほうが不健全に想える。
民衆を舐め切った政治家どもよ。あくどい集金機構の黒幕どもよ。民衆など、どうにでもごまかせる、あいつらはずっと従順でいる、いつまでも搾り取れると考えているなら、それこそ盲信だ。
このまま民衆を愚弄し続けるなら、きっと令和の「ええじゃないか」が各地で、同時多発的に沸き起こるだろう。それは、奔流のような暴力の祝祭となるはずだ。