赤い影

 人生に関わるような、大事な映画はありますか。あるとすればどんな映画ですか。贔屓の役者が出ているとか、観返す度に青春時代に引き戻されるとか、そういうのもいいですね。いやもっと重要なんだ、その作品だけが、特別な真実を語ってるんだ。とか、その作品だけが自分と同じ波長で振動していて、共鳴できるんだ。とか、熱くなる人もいるでしょう。俺にとっては『赤い影』(1973)がそういう作品だ。

『赤い影』
 迷路のような街路と運河。様々な人生が、ここに浮かび漂う。そんな感じ。本作の舞台はベニスでなければならない。そう想えてしまう。

 映画の特性として、複数の視点からストーリーを語ることができる、という強みがある。それを「神の視点」などと呼ぶ向きもあるが、本作に於いては同意できない。俺は個人的に神を憎悪しているが、それだけが理由ではない。本作は、神には解ろうはずもない情緒を手掛かりに構築されているからだ。

 原題は『DON’T LOOK NOW』。原作であるダフネ・デュ・モーリアの短編では、冒頭で、主人公が妻に言う科白である。そこはベニスのレストラン。後ろの席に老姉妹がいるが今見るな、振り返るな。なんか怪しい、と。しかし奇妙な縁に引き寄せられ、妻は老姉妹と関わることになる。妹のほうが目が不自由だが、霊視能力がある。老女は身の上話も交さぬうちに、初対面の妻へ明言する。「悲しまなくていいのよ。あなたと御主人の間に座って笑っていたわ。赤いレインコートを着て」……夫妻は娘を亡くしていた。事故だった。自宅の側の池で、娘は溺死した。赤いレインコートの姿で。

『赤い影』

 主人公は、怪しい老姉妹とは関わるなと、妻に忠告する。彼は霊視や降霊術の類を訝しく想っている。演じるドナルド・サザーランドの厳めしい風貌は、常に理知的に客観的に振る舞おうとする、融通の利かない男に相応しい。であるのに、彼は予知能力を備えている。「見える」側にいる、稀な人である。娘が溺れた際にも、彼はそれを察知して部屋を飛び出し、娘を救おうとした。

『赤い影』
 見えることで、男は惑う。

 赤いレインコートのイメージが、全ての起点となっている。全てがここに始まり、ここへ還ってくる。彼は察知しながら間に合わなかった。なんとも痛ましい経験だ。運命に抗うことはできないのだ。彼は「見える」不幸を背負っており、運命は彼を無慈悲に翻弄する。

『赤い影』

 主人公は、古い教会の造作美術の修復のため、ベニスを訪れる。しかし彼自身は信仰とは無縁の男である。彼の立場を考えれば、幾つかの理由でその不信心に共感できる。彼はベニスで悲劇に見舞われる。それは不信心のためではない。そういう運命だったからだ。我々が「神」と呼ぶ宇宙意志は、仮にそれが存在するなら、予告もなく無慈悲に我々から略奪する圧政者に過ぎない。この際、神の概念を忘れてほしい。そして、物語だけを追わないでほしい。本作の真価を摑み損ねてしまうから。本作は、魂について語られた映画である。

『赤い影』
 仕事のため撮影したスライドのフィルムに、赤い影。それは悲劇が起こる前から主人公を誘っていた。

 キリスト教圏では、人間にとって喜ばしいことは神の御業、忌むべきことは悪魔の所業とされる。どんな宗教にも、この正邪をそれぞれ司る神なり邪神なりが一対いるが、考えてみればそれらは全て、人間側の都合で、諸事情の責任を担わせた存在である。人間はか弱い。そして、全てを知ることはできない。宇宙の法則を人格化して、それを頼ったり呪ったりするしかないのだ。

 理性で律しているのに、見えてしまう男。運命を受け容れながら、見ることが叶わない女。この男女の擦れ違いが描かれるのだが、全ては、彼らの魂が、互いに惹かれ合ったことから始まっている。本作は、濡れ場をじっくり描いていることでも有名だが、決して扇情的なものではない。人が生きていく、誰かを必要とする。それがラブシーンで表現されている。映画史を見渡しても、泣ける濡れ場など、本作以外に想い出せない。再述するが、本作は、情緒を手掛かりに構築されている

『赤い影』
 男と女の、在り方の違い。

 主人公は妻を幻視する。妻は、怪我をした息子を見舞うためイギリスへ戻ったはず。なのにベニスの運河で、老姉妹とともに喪服姿で、目の前を通り過ぎた。それは「今見てはいけない」光景だった。

『赤い影』

 全ての断片が活きて働き、映画は魂の有り様そのものになっている。ニコラス・ローグによるビジョンと統率がなければ成立しなかった訳だが、本作の功績は監督独りによるものではない。撮影アンソニー・リッチモンドの世界を切り取る目。編集グレイム・クリフォードによる魂の外科手術。音楽ピノ・ドナッジオ(ベニス出身)が把持する情緒。選り抜かれたと言うより、運命に手繰り寄せられたような演者たち。これらの才能が作用し合い、本作は、奇跡的に結実している。この奇跡はあくまでも、人が成し得たものである。幾つもの才能が、一つの真実ににじり寄り入念した成果である。

 ベニスへとんぼ返りした妻へ、霊視能力のある老女が警告する。「あの人を行かせちゃだめ、連れ戻して!」ここでも夫と妻は擦れ違い、懸念されたことが現実となってしまう。やはり、運命には逆らえなかった。

『赤い影』

 臨終の際、我々は、これまでの経緯を走馬灯のように顧みる、とよく言われる。本作でもそのような場面があるが、少し違う。その走馬灯は主人公の主観を飛び超えて、主人公に関わった様々な視点から編み上げられている。そうして映画全編が主人公の魂となり、現世でどのように在ったかを物語っている。

『赤い影』
 人間はか弱い。それに、どうしたって全てを知ることはできない。宇宙の法則をねじ曲げることもできない。しかし皮肉なことに、無力を認めず抗うより、諦めること、容認することで、魂は自由を得たりする。

 本作の結末は悲劇的であるが、映画はもっと大局を捉えている。主人公の葬儀に臨む妻の表情が語っている。彼女は、毅然とした笑顔を浮かべているのだ。彼女は娘と夫を失ってしまった。けれども、魂の存在を信じている。娘は今でも彼女の傍らで笑っている。そして彼女は、確かに愛された。その確証を摑んでいる。だから不安に駆られることはない。これからも、どんな運命であっても、真正面で受け容れていくはずだ。

 機械にDVDを放り込んで再生ボタンを押しさえすれば、当り前に目の前にそれが現れるので、奇跡が厳然としてそこにあるのに、誰もそれに気づけない。だから改めて言っておこう。『赤い影』は奇跡であり、俺にとっては、人生を諦めずにいる理由の一つである。

『赤い影』