クリスチアーネ・ヴェラ・フェルシェリノヴ。十二歳で麻薬を覚え、十四歳でヘロイン中毒になり、西ベルリンのターミナル、ベルリン動物園駅周辺をうろつき、街娼をするようになる。
彼女の経緯を新聞記者が一冊のルポルタージュに纏め上げたのが、『我ら動物園駅の子供たち』(『かなしみのクリスチアーネ』読売新聞社)である。これが『クリスチーネ・F』(1981)として映画化された。
当時の西ドイツは日本と同じく戦後復興を遂げ、経済的にも繁栄し、ベルリンも貧窮したスラムではなかった。なのに実情として、若い麻薬常用者たちが動物園駅周辺にたむろしている。何故なんだと、世間が関心を持つのは当然だろう。本作は全世界でヒットした。
けれどもこの映画、世間一般の人からすると、今一つ理解しづらく、語りづらい作品であるようだ。
少年非行を題材にした、いわゆる「社会派」映画、とは言いがたい。その種の映画ならば、世の中の仕組みの何か、制度の何か、あるいは誰かに責任の所在を求め、告発するようなものになっただろう。
‘80年代、日本でも校内暴力などが社会現象となり、非行少年映画も沢山作られた。しかし『クリスチーネ・F』は、同時期の邦画のような、大人たちや、体制に対する反抗を描いたものではない。
劇中の主人公は母子家庭で、母親は娘に対する関心が薄いが、ネグレクトというほどではなく、娘も、薬物中毒に陥りながら、母親にとって問題のない娘を装う。本作には、反抗すべき大人さえ、不自然なくらい出てこない。
麻薬と未成年売春を題材に採りながら、インモラルな描写も避けられている。ベッドシーンはあるが扇情的なものではなく、薬物による恍惚も描かれない。つまり、ポルノや過激なものを求める向きにも応えない。
若手女優を売り出すためのアイドル映画ですらない。もしこれが日本芸能界の商業的戦略によって生まれた映画なら、システマチックに新人アイドルが主役に起用され、警視庁の協賛なぞも取り付けて、「ダメ。ゼッタイ。」映画がでっち上げられただろう。
『クリスチーネ・F』に職業俳優は出てこない。欧州の映画では珍しくないことだが、本作も、非職業俳優による不作為の存在感が、映画を然るべき所へ導いている。街で声を掛けられた素人が、戸惑いながら演じることに純然たる理由がある。
本作は結果として青春映画の範疇に入るものではあろうが、そこにもカテゴライズされないなら、途端に、どう扱うべきか判らないフィルムになっている。
しかしある種の人間には判る。本作は「憂いの巣」なのだ。
この世に生まれ出たばかりの赤ん坊は、何故泣き叫ぶのか。不安だから。恐ろしいからだ。けれども、その感情を言語化する術すら持たない。訳の分からない不快な所へ放り出された。帰りたい、こんなの嫌だ! と、でき得る限りの手段で訴えているのだ。
我々がこの世で最初に得る感覚は、純粋な不安、恐怖である。
主人公の少女には気になる男の子がいた。彼はヘロインを常用している。本当はやめさせたいが、彼と繋がるために、主人公もヘロインを始める。
なんでそんなに安易に、軽率に、と、彼らの行動に共感できない人もいるだろう。けれど、彼らはそもそも意志薄弱なのだ。安易に軽率に、やってしまうのだ。それに、彼らが、この世界でどのような立場に在るかと推察すれば、軽率な行動にも、彼らなりに切実な理由があると言える。
本編に現れる、当時のベルリンの風景。高層の集合住宅。あの建物には、似たような人生が沢山「収容」されている。車窓に流れる郊外都市の景色。動物園駅に佇む若者たち(撮影時、実際にいたジャンキー)の、袋小路で途方に暮れているような表情。それらを観れば判る。全ての風景に、ペシミズムが行き渡っている。彼らが感じていた閉塞感。どうしようもない息苦しさ。それは、この世に生まれ出た赤ん坊が感じた不快と同じようなものであろう。
けれども、体だけ大きくなった赤ん坊たちには、もう泣き叫ぶほどの生命力もない。彼らはただ、虚ろな目差しで見詰め返すだけ。それは、世界の概要を知り、泣き叫ぶことを諦めた、赤ん坊たちの目差しだ。
本作のモデルとなったクリスチアーネ自身、デヴィッド・ボウイのファンである。初めてヘロインを吸引したのは1976年、ボウイのコンサートの帰りだったという。
デヴィッド・ボウイが体現する、欧州の退廃と、そこからの超越。縁あって、出演だけでなく劇伴も担当することとなったが、適任は彼以外、考えられない。ボウイの音楽が、全てを語っている。
本作に愛着を覚え、繰り返し観賞するような人は、鬱の只中にある人か、メランコリー親和型気質の人、もしくは悲観主義者ではなかろうか。これはそのような人々のみが、カタルシスを感じるように作られた映画である。
「カタルシス」という言葉はそもそも、胃カタルなど、臓器の炎症や不快の原因となるものを、薬物刺激などで吐瀉させ、浄化する治療法から来たものである。ニュアンスとしては、しんどいものを打ち込まれ、たまらなくなり嘔き、それによって浄化されるというものだ。なので、「美しい桜並木の景色にカタルシスを覚えた」「救出される場面でカタルシスを感じた」などと言う輩は、カタルシス効果を実感していない。体の中に毒をもつ者が、そこに響く、毒に等しいものを喰らって、苦しみながら排泄欲を充たす。それがカタルシスである。
鬱病者、メランコリー親和型気質の者、悲観主義者には、その心に、ブラックホールのような強い引力をもつ暗黒の穴が開いている。そういう者たちだけが、本作によってカタルシスを得ることができる。その種の人々には、本作が必要なのである。
俺は『クリスチーネ・F』のような映画を「憂いの巣」と呼んでいる。
仲間たちは皆、「黄金の一発」(生命を顧みず、高純度のヘロインを射つこと)に攫われ、十代半ばで死んだ。主人公もまたラストシーンで、彼らを追うように、そうする。
最後の「私は生き残った」という独白が、観客には、どこか白々しく聴こえる。エンドクレジットに被さるメジャー展開のメロディー。ボウイの『ヒーローズ』が聴こえているが、観客は、ちっとも安堵できない。心はざわめき、不穏な予感が消えない。映画は、故意にそうしている。観客を、心許ない場所へ置き去りにして幕を引く。「憂いの巣」と呼ぶべき作品ではよくあることだ。
世界は得体が知れない。希望を抱いても、報われない。安らぎ、充足、信頼は、ずっと維持できるものだろうか。否。それらはマルチ商法団体の事務所と同じで、明日もあるとは限らない。
しかし、悲観と憂鬱は、我々を裏切ることがない。常にそこにある。ある種の人々が、そこに立ち戻り、安堵に似た感覚すら得るのも、そこが原初の風景だからだ。我々は、ここへ現れ出る前から、ここがどんな所が知っていた気がする。どうせそんなことだろうと察しつつ、一方通行の暗い通りを、不承不承抜けてきたのだ。その頃を追想してみる。懐かしい哀しみが、待っている。