映画文化の醸成は家庭用ビデオデッキの普及と併せて語るべきである。日本ビクターによるVHS開発のエピソードも興をそそるが、そこは割愛してビデオバブルの話から始めよう。’80年代、ビデオデッキの普及に伴って、どんなものでも出しゃ売れる、というビデオ需要偏重時代に突入した。とにかく出版すれば儲かるので、ソフト化できるコンテンツは次々と商品化された。売らんがために品質などは問われなかった。世界中の映像作品が底曳き網漁のように攫われ、高級魚から雑魚、クラゲや船虫に至るまで(ゲテモノの需要もあった)市場に並んだ。取捨選択できる客にとっては、豊かな環境であったと言える。
群雄割拠したレーベルの中でも特筆すべきなのが、日活のビデオ事業部、にっかつビデオフィルムズである。ロマンポルノのイメージも強いけれども、ここでは非ポルノの外国映画に話題を絞りたい。にっかつビデオも精力的に買い付けを行っていた。アンドレイ・タルコフスキーからルチオ・フルチまで、ラインナップは雑多で無節操にも想えるが、そのセレクトにはある志向性が感じられた。VHS時代、ビデオ文化の成熟に拍車をかけたのが、「カルトムービー」の概念である。カルトムービーの普及と定着に最も貢献したのがこのレーベルである。深く掘られて出てきた映画、観客が作品と堅い契りを交した映画、そういうものが選ばれている。そもそもこの企業は歴史のあるスタジオだ。ソフト化作品のセレクションにも、活動屋精神が発揮されたのかな。今回は、にっかつビデオが世に届けた作品について。
出端の頃、にっかつのビデオカセットは分厚い透明なプラスティックケースに入っていた。その頃は、海賊版を堂々と棚に並べる悪質なレンタル屋も多かった。封切られたばかりの劇場公開中の作品が何故か棚にあったり。ジャケットもコピーばかりでどれが正規品だか判らない。野蛮な時代だった。そんな清濁交わる映画の海で、俺も貪欲に渉猟を続けていた。でも、公正にすべきだね。製作者にちゃんと利益が還元されねば、映画文化も成り立たなくなる。
記事を書くにあたり『イレイザーヘッド』(1977)を十数年ぶりに観直した。
本作は至る所に、読み解くべきメタファーが散らばっている。観客にメタファーの解読を強いる映画はたまにある。『シン・ゴジラ』(2016)もそうだった。最後にゴジラの尻尾を見せ、これは何か、考えなさい。と厚かましく詰問してきた。俺は心の中で「知るかボケ」と呟き、エンドクレジットを観ずに退席した。そこまでしてやる義理はない。震災直後のゴジラ映画だ。奇妙な尻尾よりも語るべきことがあったはず。俺はメタファーの解読より、その場面ごとに受けた印象の解析のほうが重要だと考える。しかし『イレイザーヘッド』は作品全体を貫くムードが面白く、ユーモアがあるので厭にならない。監督のデヴィッド・リンチ自身が手懸ける音響、美術が雄弁だ。そして今回再び向き合い、作品に対する印象が変わった。
あれは男という性の野放図さに関する映画だったよなあ、という印象をもっていた。女は、欲望を受け容れ、生命を宿し、産み育てる。どの局面に際しても重い決断に臨まねばならず、心と体に確かな負荷がかかる。一方で男はそれを免れ、自覚のないままコトを進めてしまったりする。なので正念場に至っても、「あ~ガキが出来ちまった。もう俺好き勝手やれねえじゃん……」と、無責任にゴネる。そういう映画だと想っていた。
しかし、だとしたらあの赤ん坊の描き方に違和が生じてくる。とっくに関係が破綻している彼女との間に生まれた、あの奇妙な赤ん坊。男は、身に覚えがないと、追及してくる彼女の母親に申し開いた(ここもポイント。ホントに身に覚えがないのだと想う)。それでも、男の赤ん坊に対する振る舞いは、決して厄介なものに対する態度ではない。それに、男の頭が赤ん坊のと挿げ代わる場面まである。あの赤ん坊は、男の自我が投影されたものではないか。彼の「純粋な心」の具現化ではないか。
監督のリンチには、人が、博物館の機械人形のように見えるのかもしれない。誰かが通りかかった時だけ、ぎこちなく言葉を投げかけてくる展示用の人形のように。リンチの映画では、人と人がコミュニケートすることは基本的に困難である。だがそれは、劇場の外でも同じだ。人が誰かと理想の関係を築く。それは本当に困難だ。本作は、コミュニケーション不全に悩む、人生をコントロールできない男の話だ。コントロールできないのは、この男が甲斐性なし(心優しいとも言える)だからだ。ゆえに、この男は翻弄される。
男は、翻弄される身の上にうんざりする。人生が想い通りに運ばないのは、この「純粋な心」のせいではないか。と、物語の終局で、男は乱心を起こしてしまう……本作を観て、『エレファント・マン』(1980)の演出をリンチに託したメル・ブルックスの見識は確かである。
にっかつビデオは、ハーシェル・ゴードン・ルイスの作品も多く取り揃えていた。ルイスの作品はスプラッター映画の始祖である。
アメリカは広い。かつては、有名スターが出演するメジャースタジオの作品がロードショーされる傍ら、各州に在する小さな制作会社の作品も地元で上映されていた。興行主が自ら制作する例も少なくなかった。映画の地産地消である。ルイスも地方で制作会社を運営していた。けれども、メジャースタジオと張り合うのはなかなか厳しい。当初は女性のヌードを売りにしたものを作っていたが、性描写への規制が厳しくなり、また興行収益も振るわなくなったので、エロの代わりに残酷を扱うようになったのだ。
「♫ヒ~ハ~! どっこい南部は生き返らあ!」バンジョーを爪弾いて、ヤンキー(北軍兵)を蹴散らした武勇が陽気に唄われる。『2000人の狂人』(1964)は、おそらく史上最も朗らかなスプラッターだ。南北戦争終結百周年を祝い、北軍に虐殺された亡霊たちが、迷い込んできた北部の旅人たちを嬲り殺しにする。
南軍旗を振りながら、ピーカンの青空の下、楽しげに余所者をいたぶるリンチモブ。その明るさに背筋が寒くなる。’70~’80年代にかけて、未開のジャングルに住む食人部族の映画が関心を寄せていた。そんな奴らいねえだろと、その手の映画は霧消してしまったが、人々は気づいた。そんなんより、アメリカ南部に、やべえの大勢いんじゃんと。それから、『悪魔のいけにえ』(1974)に代表されるようなヒルビリーホラー(南部の白い食人部族怪談)が映画化されるようになった。「2000人の狂人」は、その端緒である。
群れる南部人たちの熱狂は、厭でも連想させる。キリスト教原理主義者たちのミサや、全米ライフル協会の定例会や、ドナルド・トランプが催す決起集会を。アメリカは広い。狂人が、2000人で収まってくれるとは、とても想えない。そういう人たちは保守派共和党の支持母体であり、国政を動かしている。恐ろしい奴らが、世界情勢にも影響を及ぼしている。子供に進化論を教えず、強姦の被害者でも妊娠中絶を許さない奴らが。頻発する乱射事件を気に留めない奴らが。ホワイトハウスを襲撃する奴らが。『2000人の狂人』は、ポピュリズムの恐怖を描いている。
この映画の強みは、その拙さだ。出役はほぼ素人。スタッフも、どこにカメラを置くべきかすら解っていない。しかしそれが、独特のテイストを生みだしている。何より、迸る赤ペンキの血液! この大噓の、人工塗料丸出しの血液が、このフィルムを、最高潮に禍々しいものにしている。この血が映画のリアリズムについて語っている。ここで飛び散る血液は、噓八百の赤ペンキでなければ効果が得られないのだ。撮影中赤ペンキを撒き散らしたという理由で、ルイスに褒章してもいいと想う。ルイスの諸作は、アメリカの グラン・ギニョールである。
ミッドナイトムービー=カルトムービーの源泉は『エル・トポ』(1970)であり、その呼称が最も似合う作品でもある。
本作は、西部劇の形を借りた説法であり、宗教劇とも言える。風格があり、威厳(ハッタリとも言う。一流の映画を作る者は知恵者でもあり、一流のハッタリをかます)がある。監督自身によるテーマ曲も素晴らしい。それに、アフレコの音声がいい(アフレコがもたらす効果についてはソドムの市の項で)。フェリーニの諸作のような、アフレコでなければならない作品があり、本作もその一つだ。
主人公の男はガンマンであるが、求道者でもある。「トポ」はスペイン語で「モグラ」の意。モグラは太陽に向かって掘り進めるが、太陽を見た途端、目を潰してしまう、と冒頭口上があり、物語はそれを辿る形で進む。主人公が、煩悩の塊のような女に唆され、四人の達人と勝負する場面は禅問答のようだ。特に、二番目の達人の、「自己を失ってこそ完璧だ。そのためには愛すればいい」「お前は与えるつもりで、実は奪ってるんだ」という科白がいい。達人たちは皆、この勝負を虚しいものと捉えている。主人公は、卑劣な手段で四人を打ち負かすが、そこで得たものは虚無感だけだった。果し合いに勝ち、哲学で敗れた訳だ。ここで、俗物としての主人公は一度死ぬ。
主人公は、虐げられた者たちに救われ、彼らが身を潜める洞窟で、再び目覚める。恩に報いるため、彼らを助けたい、彼らが陽の下で暮らせるようにしたいと、主人公は力を尽くすが、彼らが解放された途端、俗世の民は彼らを拒み、銃口を向ける。
終局、主人公は、自らに火を放って自害する。ベトナム戦争下、仏教徒を抑圧していた南ベトナム政府に対し、僧侶が、アメリカ大使館前で抗議の焼身自殺を遂げた。ラストシーンはそれを想起させる。
本作の在り方そのものが神話めいている。深夜興業という洞窟に押し込められ、保守的な批評に封殺されかかったが、観客たちの熱狂で暗闇から這い出し、再生した。本作に惚れ込んだジョン・レノンが、配給権を買うため身銭を切った。
数々の秘祭を日本に届けてくれた、にっかつビデオフィルムズに、改めて感謝の意を表する。