
猥雑で刺激的なニューヨークの雑踏に寄り添う、バーナード・ハーマンの劇伴。ジャジーでありつつ、なんだかクラシカル。若者の凶行を描く作品だが、妙に泰然とした印象をまとわせ、語り継がせ古典化させているのは、この劇伴に因るところも大きかろう。

不眠症の若い男が、タクシー運転手の職を求める。面接に応じた社員と穏やかにやり取りするが、どこか自暴自棄な感じ。海兵隊員としてベトナムに従軍し、名誉除隊したと本人が明かす。それが事実なら、前線で苛酷な経験をしているはず(背中の傷痕はその際のものか?)。実際この時期、復員し社会復帰を目指すも、様々な理由でままならず、トラブルを起こす者が多く、社会問題化していた。
脚本担当ポール・シュレイダーは、ベトナム帰還兵ものの傑作である『ローリング・サンダー』の脚本も手掛けている。帰還兵たちが抱えていた疎外感も、物語が起ち上がる一因だと推察される。しかし、帰還兵についての映画であると解釈すると、本作を見誤る。これは、もっと普遍的な問題を扱う作品である。なので帰還兵ものという観点からの考察は、あえて割愛する。
高度情報化社会の今に通ずる問題。ニューヨークのような都市部にも限らぬ、何処でも起こり得る、孤独について語られた作品だ。
主演ロバート・デ・ニーロは、役作りのため実際にタクシー運転手として短期間勤務していたらしい。こういうエピソード、語り草になるよね。

脚本家ポール・シュレイダーはある時期、酷い精神状態にあった。離婚し、アメリカ映画協会を退会し仕事にあぶれ、評論家としての稼ぎも乏しい。経済的に困窮し、車中生活をしていた。鬱と胃潰瘍に苦しみ、孤独に苛まれていた。夜は成人映画館に通い、気を紛らわす。彼は自身を、タクシー運転手のようだと想った。
金属の棺に入って悪夢のような世界を彷徨う者。このメタファーの獲得を契機に、彼は十日で本作の草稿を書き上げた。

ニューヨーク育ちのマーティン・スコセッシによる、勝手知ったるロケ撮影が素晴らしい。本作はロケでなければならない。街の空気を、フィルムに封印せねばならない。それは、厳然とある「現実」に溶けだす「創作劇」を描く作品であるから。

本作では、事務机、映画館のカウンター、テーブルなどを真上から俯瞰するカットが幾度も出てくる。監督はこれを宗教的で儀式的なショットと説明するが、むしろ、社会の薄情ぶり、利害関係でしか繋がれない、空疎で冷淡な交流を表しているように感じる。
自己と他者とが、断絶している。繋がりを求めるが、どうにも叶わない。

鬱屈した気分に苛まれるため、主人公は仕事仲間に悩みを打ち明ける。けれども、ここでも意思が通い合わない。嚙み合わない会話が続く。この、嚙み合わぬ会話こそ、いい脚本を判断する一つの指針だ。人は各々違う法則で生きている。視点も価値観も違う。 嚙み合わないちぐはぐな会話場面は、人物を掘り下げ、描き分けており、物語の駒に利用していない証し。

主人公の主観に寄り添った映像。極端なクローズアップや焦点深度の浅い、背景のぼやけた画。信号機。タクシーのメーター。それら細切れの編集。世界は主人公と同様、連携を失っており、バラバラに孤立している。

主人公がアルカセルツァーをコップの水に落とすショットも、そのような心象風景の一つ。鬱や、心の張りを失くした経験のある人なら、焦点が合わなくなるほど、ぼうっと何かを見詰めるしかない精神状態が判るはず。このショットは「彼女について私が知っている二、三の事柄」のコーヒーカップシーンの真似でもある。本作はゴダール作品(と恐怖映画の古典作品)の影響下にある。
主人公は、不甲斐ない現況を一気に飛び超えて、自身を祝福できるような何者かになることを望んでいる。

主人公の衝動を誘う、二人の女が出てくる。一人は、望んでも手の届かない女。もう一人は、手を出せても求めてはいけない女。彼女たちに対し主人公は、ちぐはぐな態度で働きかける。

彼は聖女と見做した女に欲情し、娼婦に清純を求める。矛盾だらけの男であるが、彼自身の理念には背いていない。

主人公が女へ、成人映画に誘った非礼を電話で詫びるシーン。この不安な構図のショットから、取り巻く全ての世界から拒絶されているような、彼の深刻な孤独を感じる。
主人公は、統合失調症を患っているようにも推察できる。
統合失調症の場合、幻覚、幻聴、妄想が発症することがあり、客観的な現実認識が困難になる。自己や、それを構成する情報を正しく認識するための統合性が、失われてしまうのだ。

本作には、鏡が繰り返し出てくる。主人公が、何者かになったつもりで、鏡像の自分に凄んでみせる、部屋の姿見。あるいは、タクシーのルームミラー。なぜこれほど、幾度も鏡(鏡像)が現れるのだろうか。
鏡像とは不思議なものだ。それは実像ではない。左右の反転した虚像だ。あなたはあなたの実像を、あなたの肉眼で見ることはできない。カメラが正面から鏡を見ることの禁忌と通ずるものがある。
そういえば、映画監督ニコラス・ローグも「映画とは鏡像のようなものだ」と語っていた。
鏡に向かって凄む、本作の主人公のように、観客もまた、人生を補完、修正するため主人公に自己を投影し、上映時間の間だけ、仮の人生を生きる。
映画とは鏡のように、欲望を反映する装置だ。映画は観客の欲望を映し返す鏡。本作でも、「映画」と「鏡」は、ほぼ同義のものとして扱われている。

観客はスクリーンに自らの欲望を投影する。映画を観ることで仮想の自己実現を成そうとしている。主人公がポルノ映画を観るのも、そこに自らの欲望が映っているからではないか。
また、映画と言う媒体には、そもそも統合性がない。
映画は、一元的に映画である。例え劇中で、これは夢、これは現実、これは妄想、という建前で語られていたとしても、スクリーンに映るその全ては、ひたすら「映画」でしかなく、どこまでが夢で、現実で、妄想か。その領域は、厳密には区分不可能である。

終局、主人公が売春宿を襲撃するシーンは、画調のコントラストを高め、何度もプリントを重ね粒子を粗くしている。

色調補正前カット。
レイティングの問題を解決するため血が鮮やかに映らないよう色調を抑えているが、監督は、タブロイド紙に使う、物騒な事件現場写真のような雰囲気が出せたと語る。

コトを起こしたその後。あらゆる事情をすっ飛ばして、主人公は英雄として讃えられ、物語を締め括ろうとする。彼の凶行は刑事事件として訴追されなかったのか。さらに、自分を袖にした女と再会し、纏わりつくような熱い視線を受ける。が、もう未練はないよ、と言いたげにあしらう。俺は成し遂げた。もう昔の俺じゃないと言わんばかりに……この白々しさはなんだ。
結局、妄想は、ずっと続いているのかもしれない。が、これも夢かうつつか、判別不能だ。
主人公はその最後のカットで、サッとルームミラーに手を伸ばし、自身の鏡像を避ける。監督はこの場面を、主人公の時限爆弾がまた始動したのだ、と説明していた。この言葉をどのレベルで捉えるべきか。
DVD化された映画などは映像特典として、監督が自作について、オーディオコメンタリーで解説していたりする。そこに映画の真意が、解答用紙のように開示されるだろうか。監督が、作品の核心を、本当に秘匿すべき肝要な部分を、そう易々と白状するだろうか。
映画は、脚本家や監督の作意をも超えて、観客の欲望をも摂り込み、生き始めるものだ。

本作の主人公のような矛盾だらけの男でも、映画は全面肯定で受け容れるだろう。男は、自分にとって都合の悪い鏡像を反射的に避け、映画の中へ逃れようとする。しかし映画は、男の噓も真実も、観客が困惑するほど分け隔てなく、映し返すはずだ。
なぜなら、映画という媒体そのものが、統合失調症だからだ。