防寒着の子供たちが三人、仲良くお手々繋いで雪道を歩いてくる……ように見えるが、両脇のは人間ではない。では何か。「怒り」である。
映画という媒体は、森羅万象を、視聴覚で認識できるよう翻訳したメディアと言える。「死」や「不安」、「怒り」などの観念でさえも、具体化して観客が捉えられるように。これを最も実践していた映画作家が、デヴィッド・クローネンバーグではないか。彼のフィルモグラフィーで初期の傑作と評価されるのが、『ザ・ブルード 怒りのメタファー』(1979)である。
クローネンバーグの映画には、変な催事や変な展覧会などがよく出てくる。本作も、観客を前にした、奇妙なデモンストレーションから始まる。演劇のようにも見えるが、これは医療行為である(医療と言うより人体実験であるが)。オリヴァー・リード演ずる精神科医ラグラン博士が、患者へ怒りを促す。もっと怒れと焚きつける。患者の体に発疹が現れる。感情が、肉体的な徴しとなって顕れたのだ。
デモンストレーションを観た客の一人が「博士は天才だ」などと言う。ストレスで発疹が出来たりって珍しくないだろ? と想ったりするが、西洋医学では心と体を分けて考えるので、驚くのかもしれない。
とにかく、この博士は、患者の感情を操って、肉体の変容を促す研究に没頭している。マッドサイエンティストである。演劇的なアプローチを用いているのが面白い。
主人公のカーヴェス(アート・ヒンドル)は、博士の病院で入院治療中の、妻のノラ(サマンサ・エッガー)と、面会することも許されない。後々知ることになるのだが、ノラはラグランにとって、最も効果を現した実験体だからだ。
物語の上で主人公と妻は揉めているのだが、本作を制作していた当時、クローネンバーグは、娘の養育権に関して別れた妻と係争中だった。その頃を振り返って彼は「妻を絞め殺したかった!」と素直に吐露しており、作中でそれを実践している。これは彼の個人的な想いの詰まった作品でもある。
本作からハワード・ショアが音楽を担当している。これ以降、クローネンバーグ作品の、欠くべからざるアイデンティティーの一部となっている。優れた音楽家は、突出した読解力と創造性を併せ持つ。ハワード・ショアほどの才能との邂逅も、稀有なことだと想う。
主人公の妻には不憫な生い立ちがある。ずっと母親に虐待されて過ごし、父親も彼女を守ってくれなかった。その憤りは癒されることなく、心の中に溜め込まれ、やがて自身も娘を持つことになった。
本作では、「怒り」が肉体を得て動き回る。「怒り」が物理的に、その対象へ襲いかかる。原題の「BROOD」は、「腹中の子」「巣の中の雛」という意味。サムネイル画像の子供のようなものは、感情が有機体となったもの、「怒りの雛」である。
クローネンバーグ作品は、奇想をリアリズムで表そうとする。真に迫るべく丁寧に創り込んでいる。感情が肉体化して暴れだすのは荒唐無稽だが、あり得るかもと想わせる。
それに、人間の単為生殖は、遺伝子の解読がもう少し進めば、科学的には実現可能になるだろう(もちろん倫理的な問題に阻まれるはずだが)。そうなれば、女性は男性と接触せずとも子を産むことができる。その場合は子も女性である。
女性が罹る病気、卵巣嚢腫の一症状として奇形腫(テラトマ体、テラトーマ)が生じることがある。ほとんどが良性の腫瘍であるが、性交渉の経験もない女性の卵巣が、腫瘍のために腫れ上がる。その内部で、皮膚や髪の毛や歯、骨、眼球、脳細胞などの組織が出来上がり、どんどん成長するためだ。この組織は母体のものではない。まだ不確定な胎児のもので、再述するが、生殖行為を経ずに、人間が単体で胚胎したものだ。これは産む性のポテンシャルを示唆している。子種の設計図などなくとも、女性の体は人間を造り出そうとする。
人間の原型はやはり女である。男はその補佐的な役割として派生したに過ぎない。生殖に関与している実感がないためか、人間のオスは、存在を誇示するために大声を張り上げ、威張り散らすようになったのかもしれない。女性独りで子孫を残せるなら、もうY染色体は不要だ。それでも構わないと想う。野郎なんざ増やしたってロクなことにならない。「イヴはアダムの肋骨から拵えた」などと言いだして女性の地位を貶め、同じ種族を奴隷にし、狂ったように木を切り倒し、海に毒を流し、遊興で生き物を狩り、領土を巡って爆弾を投げ合う。これ全てY染色体の罪業だ。女性たちよ、単為生殖が可能な世の中になったら、もう男など生み出さんでよろしい。
クローネンバーグ作品は観念の具象化が面白いが、それを格別に美しい映像として結実させている。サムネイルの場面もそうだが、主人公の妻が、博士の誘導によって体表に生じた子宮の、羊膜のようなものを引き裂くシーン。自ら血塗れの「怒りの雛」を取り上げ、野生動物のように舐めて愛でる。このシークエンスは、刺激的であると同時に美しい。しかし悲しくもある。
母に虐げられ、父に見放され、夫と諍い、娘をも引き離された孤独な女。全世界から払い除けられた彼女が、恭しく、愛しむように抱え上げることができるのは、己が怒りの感情だけである。なんと哀れな境遇だろうか。とても彼女を憎むことはできない。
しかしこの物語の最たる被害者は主人公の娘である。この幼女は、憎み合う両親の間で、心の平安を失っていたはずだ。その上、人が殺されるのを目の当たりにし、さらに自身まで、母の「怒り」に襲われる。彼女も、己が心の傷を、怪物になるまで育むのだろうか。
クローネンバーグは、やはりリアリストだ。自らの経験を反映させながらも、希望的観測を排し、冷徹な物語に仕上げたのだから。本作に登場する主要人物は、誰一人救われることなく、映画は終わる。
絶望の連鎖。それが現実だ。