地獄巡り

 2022年2月24日、ロシアがウクライナへの侵攻を再開した。クリミア半島を併合する以前より、プーチンはウクライナ全土を略奪する妄執に囚われていたはずである。ロシアの周辺に、西側諸国(NATO体制)との緩衝地域を設けておきたいからだ。この度の戦争は、一人の偏執狂による愚挙と言えよう。民意の後ろ盾のないまま始まっており(そもそもプーチンにとって不都合な言論など弾圧され続けている)、もうすでに、かの大統領は何度吊るされても足りないほどの極悪非道を指揮している。たった一人の狂気に大勢が追従し、悲しむべきことが起こり続けている。我々は未だにこのような時代を生きているのだ。

 このニュースを受けて俺は、ウクライナのために何か役に立てないかと、焦れるような気持ちになったが、結局、雀の涙ほどの義援金を寄付することしかできなかった。国家間の紛争の前で、特に何者でもない一小市民は、本当に無力である。けれども、一人一人が、事態を早く収束させるために考え続け、働きかけ続けることが重要になる。戦禍の只中にいるウクライナ国民に想いを馳せるべきだ。彼らが今、どんな状況に置かれているのか。

 1988年、ずっと気になっていた映画を観に出かけた。封切館のシネマスクエアとうきゅうでの上映には間に合わなかったので、放課後、夜の新宿へ赴き、東映会館の二番館で観賞した。その日俺は、十七の誕生日だった。あそこまでコテンパンに映画に叩き伏せられたことはなかった。苛烈極まる、凄絶な作品だった。年端の変わらぬ白ロシアの少年へ完全に感情移入し、彼とともに地獄巡りをした。『炎628』(1985)を観たのだ。

『炎628』

『炎628』の舞台は、白ロシアと呼ばれていた地域。現在のベラルーシである。タイトルの628とは、ナチスドイツ軍によって焼き払われた、白ロシアの村の数である。ちなみに監督エレム・クリモフの奥さんも、ラリーサ・シェピチコという映画監督で、同様に白ロシアを舞台にしたパルチザンの映画『処刑の丘』(1976)を撮っている。残念ながら現在のベラルーシは、ルカシェンコの独裁下にあり、東欧の北朝鮮とも呼ばれるほど民衆が抑圧されている。実質的にロシアの属国なので、この度の侵攻作戦でもロシア陣営に加担している。

『炎628』

 白ロシアの砂原で、パルチザンが地中に隠した銃を掘り出す少年。彼は、一人前の男になりたい、兵士となって戦いたいと、引き留めようとする母の想いも顧みず、パルチザンに入隊する。

『炎628』
 じっと体を強張らせ、シャッターが切れるのを待つ。映画の中で人物が動きを止めるのは、たいてい死ぬ時だ。だから記念撮影のシーンは異様なのだ。動く遺影、と形容すべきか。

 けれども、野営地に合流して間もなく、部隊は進軍を開始し、経験の浅い主人公は、ただ一人その場に残される。そしてここから、主人公は、人の世の、最もおぞましい境地を彷徨うことになる。

『炎628』
 この世の地獄に身を置き、一日にして老人のような風貌になる少年。

 白ロシア各地で虐殺や暴行、金品の略奪などを行っていたのが、アインザッツグルッペンである。それはドイツ軍が敵性分子を殲滅するために組織した混成部隊である。敵性分子とは、パルチザンやその協力者、ユダヤ人、ロマ人(ジプシー)、共産主義者などを指す。ドイツ軍はこの敵性分子を、根絶やしにせねばならない種族と見做していた。例え銃後の民間人、女性、子供であろうとも、共産主義者という名目で殺戮の対象となった。共産主義は劣等民族に宿る、劣等民族の存続は許されない、という歪んだ優生思想だ。アインザッツグルッペンを構成する兵の半数は、軍法会議にかけられた経歴をもち、刑を免れるため本隊に志願しているので、実質的には懲罰部隊とも言える。戦時に於いて、人は、組織的にその品性を貶められる。

『炎628』

 爆破で鼓膜が破れたように塞がる音像。同様のシーンがある『プライベート・ライアン』(1998)は、明らかに本作の影響下にある。『炎628』では、そこから夢の中を漂うようなシークエンスへと連なる。頭上遠くで唸る、ドイツ軍偵察機の不穏な飛行音。死臭を臭わせるような蠅の羽音、悲鳴をあげて悶える炎……撮影も素晴らしいが、音響、音効が秀逸である。

『炎628』
 グラーシャを演じる、オリガ・ミローノワ。霧雨の中、チャールストンを踊るシーンが印象的。

 主人公がヒトラーの肖像を撃ち抜く。一発、さらに一発、怨みを込めて。発砲するごとに、呪われた時間が遡っていく。侵略戦争とホロコーストを指揮するヒトラー。首相に就任するヒトラー。陸軍下士官だった、第一次大戦時のヒトラー。歴史はどんどん退行し、ついに罪を犯す前の、幼いヒトラーが顕れる。怒りに震えながらも、主人公は、幼いヒトラーを許した。幼い子供まで撃つなら、奴らと同じになってしまう。根絶せよ、殲滅せよと喚く奴らと同類になってしまう。我々は罪深い種族であるが、その可能性までも否定するなら、善くなる見込みなどないと断ずるなら、我々はもう立つ瀬を失ってしまう。

『炎628』

 パルチザンの部隊が移動を始める。隊列へ馳せ戻る主人公の後ろ姿に、虚しく、悔しく、やりきれない、そんな涙が溢れて止まらない。この行軍は、いつまで続くのだろうか。

『炎628』

 エレム・クリモフの演出は、詩的、抒情的でありながら、異様なまでに揮発性の高いエネルギーを孕んでいる。それで残虐、酷薄な状況を描くので、なおさら強烈に迫ってくる。登場人物はこちらを見据えて訴える。映画は、観客のあなたが第三者的な立場であることを許さない。映画はあなたの頭髪を摑んで領内へ引きずり込む。画面をスタンダードサイズに狭めてあるのは、それを容易にするためであり、戦略的な包囲網と言える。

『炎628』

『炎628』は、光学的に勃された戦争である。人類は度しがたいほど愚かな種族なので、戦争がいかに虚しく罪深いかを想い知らせるためには、身体に害が及ばない程度の戦争を勃すより他に手段がないのだ。本作と対峙しても、物理的な危険はない。けれども、あなたの心は確実に侵され、傷つけられる。本作は、あなたの心へ侵攻するべく存在している。

『炎628』
 

『炎628』には、血縁関係にあるような作品が存在する。『異端の鳥』(2019)である。制作国はチェコ、スロバキア、ウクライナとなっている。本作では、インタースラーヴィクが劇中話語として使用されている。これは、スラヴ民族が共通して使えるような、汎スラヴ語を目指して造られた言語であり、言わばスラヴ版のエスペラント語である。本作に於いては、物語の舞台を特定したくない、東欧のどこでも起こり得る話だ、という理由で採用されたのではないか。

『異端の鳥』の主人公はユダヤ人の少年。ホロコーストから逃れるために、故郷から遠く離れた老女の元へ預けられる。けれども、その老女が亡くなり、家も火災で焼失する。ここから、少年の地獄巡りが始まる。少年は、漆で塗ったような黒々とした瞳と、黒髪の持ち主なのだが、かつて東欧では、このような容姿はジプシー、もしくはユダヤ人の特徴と捉えられていた。実際に、ジプシー、ユダヤ人の全員がそのような見た目である訳ではないし、黒い瞳で黒髪だから忌まわしいとされるのも、謂れのない差別、偏見である。原題の『THE PAINTED BIRD』とは、塗られた鳥、の意である。羽根に色を塗られた鳥は、仲間から攻撃される。謂れのない迫害を受け、絶命するまで虐げられるのだ。

『異端の鳥』

 主人公は方々で酷い仕打ちに遭うだけでなく、自身と同じように酷遇される人々と出会う。考えてみれば、これは戦時下に限ったことではない。人生とはそもそも地獄巡りであり、修羅道ではないか。これに異論のある方は、この世間では例外的に恵まれた方であろう。それにしても、天国、極楽を表現すると単調になってしまうのに、何故地獄はこれほど多彩多様に描かれるのだろうか。人が感じる苦しみ痛みが多岐に渡るからか。人を悦ばせ、心を充たす手段より、責め苛む手段の、なんと豊かなことよ。

『異端の鳥』

 劇中、コサック兵が村を襲撃する場面があるが、日本人には解りづらい。コサックってロシア人だろ、と想われるかもしれない。実際ロシアにもいた。が、本来、コサックとはウクライナ人のことを指す。大戦中、ソビエト政府に弾圧されていたコサックたちは、反共、反ソ連であり、ナチスドイツの陣営に就いていた。コサックとソ連は敵対していたのだ。ウクライナ人は元々、各地から入植してきた遊牧民族であり、それがコサックと呼ばれる半農半軍の集団となり、領土を衛るようになった。このコサック魂は今もウクライナの人々に根付いている。この度の侵攻でロシアが苦戦を強いられてるのは、コサック魂が阻んでいるからである。

『異端の鳥』

 ほとんど予備知識なしで観始めたのだが、本作には、ハーヴェイ・カイテル、ウド・キアー、ジュリアン・サンズ、ステラン・スカルスガルドといった国際的な大スターが次々出てくるので驚いた。

『異端の鳥』ビハインド・ザ・シーン

 中でも感慨深いのが、アレクセイ・クラフチェンコとバリー・ペッパーが、ソ連兵役で共演しているところだ。『炎628』の主演の少年と、『プライベート・ライアン』の狙撃兵である。二十年の時を経て、二つの映画が邂逅しているようだ。監督の目配せを感じる。

『異端の鳥』

 偏見、悪意、憎しみ、妬み、不寛容、拒絶、孤独……人心の、汚泥の沼を這い回り、主人公の心も荒んでいく。けれども本作は最後に、地獄から脱け出す兆しのようなものを示す。

『炎628』

 愚か者が今日もどこかに地獄を造りだし、誰かを陥れている。全人類が明日賢くなる処方などない国家規模の争いの渦中におらずとも、生きている限り、愚か者との軋轢に悩まされることは避けられない。小さな戦争は至る所で頻発している。けれども自棄を起こすことなく、根気強く冷静に、もどかしいほど細やかに、模範的な行動を積み重ねていくしかない。人生とはそもそも地獄巡りであり、修羅道なのだ。